ひとこと言わせて
President’s Mutter

南九州を訪ねた旅で感じたこと

ひとりごと

公開日時:2013.04.24

私的なことで恐縮ですが、私たち夫婦が結婚して今年50年、当時の新婚旅行は宮崎、鹿児島、指宿など南九州が定番でしたので私たちもそのコースをまわりました。有り難いことに現在、二人とも元気に動けるので、同じルートを今月初めに旧婚旅行としゃれて行ってきました。桜島や開聞岳の勇姿は変わっていませんし、いまでも先祖を大事にして、どこの墓地にも新しい立派なお花が沢山飾られていました。でもこの50年間に大きく変わったことが幾つかありました。一つは 当時の鹿児島空港は市内の鴨池にありましたが、その場所はすっかり市街化されて大きなホテルが建ち並んでいます。空港は郊外の山に入った溝辺町に移りました。また古いガイドブックには知覧の観光に武家屋敷は載っていましたが、特攻平和会館は書かれておりませんでした。今回の旅で、もちろん知覧の特攻平和会館を訪れ国のために命を捧げてくれた当時の若い人々に感謝してきました。知覧に行く手前10数キロ離れた南さつま市にある万世特攻平和祈念館も尋ねました。知覧の特攻平和会館と同じようにここから飛び立って沖縄に向かって帰らなかった200余名の方々の遺品や遺影、遺書が飾られています。入館したときに係の人から、「今から68年前の早朝5時にここから16人の特攻隊員が出発して帰らぬ人になりました」と言われ、身が引き締まる思いが致しました。知覧には何百人もの大勢のひとが観光バスで見学にきていましたが、ここ万世は知覧と違って知っている人が少ないせいで、わずか数名の入館者しかおられませんでした。でも展示されている品々には本当に頭が下がります。今でいう高校上級生から大学2、3年生の年齢の人たちが、出陣前に書いた毛筆の遺書は大変達筆で、最初に父母の恩に感謝し、国のため、次世代の人たちのために命を捧げることに未練は一切感じられない文章に続き、先に逝った兄とは「靖国の杜」で再会しますと書かれている遺書をよむと自然と涙腺が緩んでこらえきれません。

知覧特攻平和会館
万世特攻平和祈念館

 

 

 

 

 

 

 

近くの吹き上げ浜から引き上げられた零式三座水上偵察機

 

 

 

 

 

 

 

戦後の日本人は靖国神社を疎んじていますが、これでは純粋に日本の国のために命を捧げてくれた当時の若い人々は浮かばれないのではないでしょうか?戦後連合軍の裁いた東京裁判で有罪となって死刑になった戦犯がまつられているからという理由で、一緒に祀られている純粋に国のため我々後生の人のためになくなった246万人以上の軍人や犠牲者の人々を無視して良いのでしょうか、連合軍の占領が終わり独立してから、そのとき戦犯になった人々も国会の全政党の決議でその罪が免じられ、総理大臣や外務大臣になった人もおられます。今ではリゾートになった沖縄に若い人はじめ多くの人たちが訪れますが、那覇空港についたら、まず南にあるひめゆりの塔や白梅の塔、健児の塔など戦没者の遺蹟に感謝をしてから、北にある美ら海水族館などの観光地を訪れてほしいと思います。そして、なぜ戦争をしなければならなかったか、戦後封印された日本の伝統や文化、特に明治維新以降の歴史をふくめ勉強する必要があるように思います。あの時代に戦友や銃後の家族と再会するのは靖国神社と思い込んで亡くなった人々の帰るところがなくなってしまいます。どうか靖国神社をはじめ、各地にある護国神社や平和祈念館に感謝の気持ちを表わしてもらいたいと思っています。

今回の旅のおわりに、新婚旅行の時は途中で下りてきましたが、25年間の銀婚式には頂上までゆき、金婚50年に何とか登りたいと思っていた念願の開聞岳を会社の若い人たちと登ることが出来ました。開聞岳の雄々しい勇姿は気高さと威圧感さえ感じます。そして戦争の終わるころに特攻隊の人たちがこの山を目印にして飛び立ってゆきました。今私たちはレジャーでこの山に登ることが出来て、日々平和で恵まれた生活を送っていられるのも、犠牲になった方々を忘れてはいけない、つねに感謝をしなければならないと思っています。

開聞岳の勇姿 標高923m
沖縄 白梅の塔